「そらとぶこぎんプロジェクト」とは

そらとぶこぎんプロジェクトは、雑誌『そらとぶこぎん』の編集・発行を主な目的としたライター3人の集まりです。

 

 わたしたちの故郷である青森県津軽地方に伝わる民藝「こぎん刺し」の知られざ る 歴史を掘り起こしながら、いまの動きもキャッチし、情報発信に努めています。

 

刺し手には安らぎを、使い手には手仕事の温もりを感じさせてくれるこぎん刺し。 

先人の生活の知恵からうまれた素朴で美しい手仕事が、国境を越えて親しまれ、時代を超えて受け継がれていってほしい。

そうした願いを「そらとぶ」という名前に込めています。

 

ここでは少しだけ、創刊に至る経緯をご紹介します。

 

◇◇◇はじまり

 

「こぎん刺しの雑誌をつくり、こぎん刺しとともに生きる人の思いを後世に伝えたい」

 

 平成28(2016)年、地元新聞社の仕事で知り合った石田舞子、小畑智恵に鈴木真枝が提案し、参加を呼びかけ、3人での活動がスタートしました。

編集方針は「こぎん刺しの歴史の掘り起こしと、現代の刺し手さんたちの活動や思いを書き残すこと」。そして「掲載する情報はこぎん刺しに限ること」。

とことん地元にこだわって発行所は青森県弘前市の出版社「津軽書房」にお世話になり、翌年春に『そらとぶこぎん』を創刊しました。

 

 

津軽書房にほど近い弘前公園のお堀端から望む、残雪の岩木山(青森県弘前市)。春には桜の見物客でにぎわう
津軽書房にほど近い弘前公園のお堀端から望む、残雪の岩木山(青森県弘前市)。春には桜の見物客でにぎわう
津軽書房発行の創刊号
津軽書房発行の創刊号

 

◇◇◇「わからない」が原動力

 

現代においてこぎん刺しは手芸の一つとして広く親しまれています。好きになったら深く知りたくなるのが人の性。ところがこぎんの歴史に分け入ってみると、分らないことが多いという印象でした。

 

例えば、一度廃れたこぎんが戦前戦後に再興していく過程で立役者となった刺し手の女性たちの生き様。

こぎんの研究に勤しみ、模様の解明と分類に貢献した陶芸家高橋一智氏の活動。

そして、ものづくりには不可欠な材料、特に麻布をどのように調達しようとしたのか……。

 

こぎんが名もなき民衆の衣服だったためなのか、「女子・子ども」の針仕事として低く見られていたのか、現在に至るまで詳細な公式記録というものが存在しません。そもそも、その発祥からして不明な点が多いのです。

 

 

こぎん刺しや菱刺しなどの書籍
こぎん刺しや菱刺しなどの書籍

 

 

わたしたちは、「温故知新」という姿勢はこぎん刺しも例外ではないと考えます。過去の出来事から学びを得ようとしたときに、書き残されているものが極めて少なく、手掛かりが限られている状況にあっては、こぎん刺しの継承と発展は早晩難しくなるかもしれない。再興を果たした昭和の時代が遠くなりつつある今、関係者の証言を拾い集めなくては失われてしまうのではないか。100年後の人たちのために、書き残す責任があるのではないか……。

 

このような危機感をメンバー3人と津軽書房が共有し、貴重な情報さえ長期保存が難しいインターネット社会だからこそ、印刷物で残すことにこだわりました。

 

 

◇◇◇三人寄れば文殊の知恵

 

 雑誌づくりを思い描いていた鈴木にとって幸運だったのは、東京都内で雑誌編集者をしていた石田が故郷の弘前市にUターンしていたこと。確かなライティング技術を身に着けた人材を擁することは、雑誌本体の信頼性を高める上で不可欠でした。石田は祖母の石田昭子(あきこ)さんが古作こぎんの蒐集家であり、いずれは昭子さんのことを書籍にまとめたいとの思いを抱いていました。

 また、こぎん刺しは地元青森にとどまらない広がりをみせており、今や世界中に愛好家がいます。掲載する情報を地元に限定しないために、首都圏在住のライターにぜひとも即戦力として情報収集を担ってほしいと考えていました。幸いにも鈴木には心当たりがあり、かつて新聞記者時代にたった一度だけ、喫茶店でコーヒーを一緒に飲んだライバル紙の記者が東京に移住し、青森の情報発信に取り組んでいます。それが小畑で、2007年に津軽金山焼の聞き書き『土と炎とじょっぱりと』(出版・津軽金山焼)を手掛けた経歴もありました。

 

  スポンサーなしの手弁当で始まった活動は、それぞれの個性を活かして少しずつ少しずつ、形をつくり上げています。一人の力に限界があったとしても、心ある人が複数集まれば、それはもう無限になるのだという信念で。

 

 

(左から)石田、鈴木、小畑。取材で訪れた福島県内で遭遇したJR東日本の四季島と記念撮影
(左から)石田、鈴木、小畑。取材で訪れた福島県内で遭遇したJR東日本の四季島と記念撮影

 

◇◇◇「そらとぶこぎん」の名称について

 

 「そらとぶこぎん」という名称は石田の祖母・昭子さんの発案です。が、雑誌のために名付けたものではありませんでした。

 昭和3(1928)年生まれの昭子さんは、20代後半から古いこぎんの蒐集を始め、200枚ほども集めたといいます。2016年になって初めて、蒐集したこぎんの展覧会を開きました。このときの展覧会名が「宙(そら)とぶこぎん」。軽やかでワクワクするような名前は、昭子さんの次のような思いからでした。

 

 「88歳のとき、皆さんにあづべた(集めた)こぎんごと見でもらおうと思ったの。とっさに「宙とぶこぎん」って名前が浮かんだの。ずっと人の下で働きづめで、人に誇れるごとは何もないけど、ずっとしまってあったこぎんを外に出そうと思ったら、こぎんが箪笥から外の世界に飛び出す気がした。こぎんがワ(私)ごと外の世界さ連れ出してくれだ。」

    (小畑智恵担当「昭子おばあちゃん物語」~『そらとぶこぎん』第2号より抜粋)

 

 

「宙とぶこぎん」展(会場は弘前市の鳴海要記念陶房館)
「宙とぶこぎん」展(会場は弘前市の鳴海要記念陶房館)

 

 

 Uターンした石田と鈴木は「宙とぶこぎん」展で再会し、雑誌づくりに向けて始動しました。こぎん刺しが結んだ縁を大切にしたいという思いも込めて、昭子さんに名前の使用を了承していただきました。昭子さんはいまも健在で、こぎん刺しに囲まれた暮らしを静かに楽しみながら、わたしたちの活動を見守ってくださっています。

 

 こぎんは、北国青森の風土からうまれたものです。今でこそ青森は、農林水産物に恵まれた自然豊かなイメージで語られますが、こぎんが続いてきたのは綿花が育たない寒冷地だったからであり、そのために冷害と飢饉にたびたび見舞われ、加えて水害などの自然災害に苦しめられたきた歴史があります。生き延びること自体が難しい環境の中で、女性たちは農作業や家事仕事の合間に時間を見つけてこぎんを刺し、それが慰めになり、楽しかったといいます。布の織り目を数えながら針を進めているうちに安らぎ、「明日も頑張ろう」と思う。わたしたちがこぎんを続けているのも、同じ理由からかもしれません。

 大きく変わる時代のうねりに飲み込まれそうになって、方向を見失い立ち止まってしまったり、生きづらさを感じることもあるでしょう。さまざまな思いを胸にこぎんとともに生きる人々を文章につづることで、こぎん刺しと青森の発展に尽力したいと思っています。

                                   (記・鈴木)

 

石田昭子さん(中央)、昭子さんの長女・眞理子さん(右から2人目)と、そらとぶこぎんプロジェクトのメンバー
石田昭子さん(中央)、昭子さんの長女・眞理子さん(右から2人目)と、そらとぶこぎんプロジェクトのメンバー

 

<メンバー略歴>

 

鈴木真枝(すずき・さなえ)

編集長兼ライター。地元新聞社で20年間、津軽地方の話題を取材。

現在は公共図書館に勤務。

 

石田舞子(いした・まいこ)

ライター。東京都内で出版社勤務等を経て帰郷後、フリー編集者としても活動。

2019年に『古作こぎん刺し収集家・石田昭子のゆめみるこぎん』(グレイルブックス)を編著で出版。

 

小畑智恵(おばた・ともえ)

ライター。青森市出身、東京都在住。地元新聞社で16年間、取材。

上京後はライフワークとして首都圏から青森を応援し続けている。