地元紙に追悼文を寄稿しました

 

 東奥日報さんからの依頼で、先日亡くなった石田昭子さんの追悼文を編集長の鈴木が寄稿しました。お許しをいただきましたので、全文をここに転載します。

 

 

 ◇古作こぎんで人々結ぶ

 

 石田昭子さんは昭和3(1928)年に弘前市高屋に生まれ、20歳ごろに同じ高屋地区の農家の三男に嫁ぎ、一度もよその土地で暮らすことなく、先ごろ93年の生涯を閉じた。亡くなった日、SNS上には「昭子おばあちゃん」と慕った孫世代の人たちの、悲しみと感謝の言葉が投稿されていた。津軽で生きた昭子さんと県内外の若い人たち、加えて私とを結んだものはこぎん刺しだった。

 

 江戸後期から明治時代にかけて、津軽地方の農家で女性たちが自分や家族のために刺し子をし、仕立てた着物を「古作こぎん」と言う。昭子さんは古作こぎんを収集した人だった。昭和30年代に女性が独りで家々を尋ね回っては、200枚ほども集めたというから驚く。白と黒が綾(あや)なす古作こぎんの美に魅せられ「きれいだもんだ、もっと見たい」という極めてシンプルな思いだけが原動力だった。

 

せっかく集めた古作こぎんだったが生活のため手放さざるをえず、35枚が現在まで保管されている。今となっては文化財級なのだが、昭子さんとご家族は求める人があれば分け隔てなく公開し、貸し出しもする。古作こぎんが現在のこぎん刺しの原点だと知っているからこそで、手に取って観察したり、羽織ってみたりすることを勧めてくださる。そうすることで理解が深まり、私も調査活動でどれほど助けられたかわからない。

 

 

 

(撮影・下山一人)
(撮影・下山一人)

 

 

私が初めてお会いした時、昭子さんは88歳という高齢もあって収集当時の記憶は薄れていたが、繰り返し語ったのが「こぎんには刺した人の思いが詰まっている」というものだった。ご自身がこぎん刺しを多くされた経験と、古作こぎんを譲ってくださった家々の暮らしぶりを見てきて、単なるモノとは考えていなかったのだと思う。そうした思いが津軽訛(なま)りで語られることも得難い体験で、昭子さんの言葉を聞き漏らすまいと、耳をそばだてていた若い人たちの姿が印象に残っている。

 

 昭子さんが亡くなられてから、ご家族との交換日記を見せていただく機会があった。コロナ禍の中、昨年暮れに入院した昭子さんが寂しくないようにと交わしたそうで、晩年の写真がたくさん添えられていた。こぎんが結んだ人々との思い出を拝見しながら、こぎん刺しの現在の活況を支えた柱の一人は間違いなく、昭子さんだったと思い知った。私が編集長を務めるリトルプレス名も昭子さんの展覧会名がもとになっている。

 

 昭子さんのことは孫の石田舞子さんによって数年前に書籍化された。その書籍名にちなんだ「ゆめみるこぎん館」が、自宅の一部を展示スペースに開館準備中という。昭子さんの遺した有形無形のものを次の世代が受け取る機会をつくろうと奮闘されるご家族もまた、私たちの得難い宝である。

 

 

(東奥日報2021年6月3日付掲載)

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コメント: 2
  • #1

    山田惠子 (金曜日, 11 6月 2021 14:54)

    40数年間お世話になった青森の素敵な思い出は《こぎん刺し》と《津軽塗》。
    時間が有るときは青森市の新町の(津軽や)で店内の品々を眺めたり郷土館に展示されている《こぎん刺し》を観に行くのが好きでした。

  • #2

    石田舞子 (火曜日, 29 6月 2021 10:38)

    山田さま
    コメントありがとうございます*
    青森の思い出としてこぎんと津軽塗、地元民としてとってもありがたいです!